“見覚えのある風景なのに何か足りない”
清涼なせせらぎや荘厳な巌の連なる山々、
玻璃のように澄み渡った湖に、柔らかで可憐な花々の咲く野原。
吹き来る風さえ瑞々しい青々とした草原に、
乾いた砂や土ばかりで荒涼とした眺望の広がる中にも
ふと虚空の深淵を悟らせるよな荒野とか。
その世界には、それは豊かな表情や真理を含んで奥深い、
様々な風景や景色が至る所に広がっており。
そんな世界のそこここには、
静かな月明りの下でも、闊達な陽盛りの下でも
生き物も人も、啓示を下さる尊も数多おられ、
教えを授けるにも授かるにも忙しく、
いつだって気持ちに張りが出る。
“おや。”
通りかかった回廊の、
刳り貫きの窓には陽除けの更紗。
風にあおられないよう押さえるために、
翡翠石を連ねたチャームが下がっており。
ちゃりちゃりという少し冷たくも硬質なささやきが
風の訪のいを知らせてくれる。
「ブッダ様? また新しい真理の書ですか?」
下界では日々、新しい“ものの考え方”が生まれており。
世相や何や、目まぐるしく塗り替わるそのたびに、
新しい知識層が生まれ、そのうねりが思想を育む。
追っても追っても詮無いと判っているのだが、
そんな世界からやって来る たくさんの人の和子へと思いや教えを伝えるには、
どんな言語ででもどんな意識にでも寄り添えなくてはならぬから。
取りこぼしのなきよう、余さず目を通さねばねといつも口にするお師匠様であり。
ちょっと呆れたような、とはいえ
言っても利かぬもの相手という やわらかい苦衷を咬んだようなお顔をする弟子なのへ。
こちらからも小さく笑うと、綴じられた書物を数冊手にしたまま、瑠璃宮の廊下を進む。
窓の外には明るい陽。
表へすっかり開放された渡殿も、
昼上がりだからだろ こちらは日陰となっており、
そんなせいか、庭を縁取る糸杉の頂や ツタが絡んだ槇の幹などが
温かい明るみに白く染まっているのを眺めると、何とはなし胸の底がホッとする。
そちらへはいつだって運べるから、今はこれらに目を通さないと。
脚は屋内への道を選んでいるし、時間が惜しくての早足になる。
柿色の衲衣の裳裾を見下ろして、
そういえば、最近ではいつ外出したっけと、
かすかに思ったその間合いへ、
「ブッダ様?今日はお出掛けにはならないのですか?
お約束はなさってられませんか?」
誰のそれだろう、不意な声が掛けられて。
約束?
何の話?と。
振り返りかけたその頬を、冷たい何かが鋭く掠める。
螺髪に結いまとめてすっきりあらわになっていたところへ、
振れるかどうかという鋭くも凶悪なそれは、
そのまま進まねば、かかとのすぐ後ろに裂けていた地割れの淵へ
真っ逆さまに落ちるぞと、
背中を押す強い風が寄越した軋轢で。
何だ、これ。何が起こっている?
見回すそこもここも覚えのある瑠璃宮なのに、
肩越しにちらと見えた足元にはあり得ない暗渠が穿たれていて、
こちらへは進むな戻るなと脅されているかのよう。
これはどういうことだろう。
こんなまがまがしい闇なんて、
よほどの戦乱や混乱の中、人心乱るる折でもない限り
接した記憶はない桁の魔物の気配でもあって。
…魔物?
何でそんなものに捕らえられている自分なのか。
そう、これはまやかしの世界だとやっと合点がいく。
しかもかなりの力持つ存在に 深く忍び込まれたが故の鮮やかさ細やかさだったのであり。
建物の中からしか望めない“向こう”には何があった?
何があふれていて、そこへ寄るなというこの妨害か。
ああ、そうだ。
底さえ見えず、対岸さえもはや存在しない淵の側へ、
足元からその身ごと振り返れば、
「ブッダ!」
伸びやかな声が呼ぶ。
中空に現れたその人は、浄土の人や尊の衣紋とは異なった装いをまとっていて、
衣紋の白も神々しいが、それ以上にその身自体が晴れやかな光をおびており。
お顔の作りも風貌も、異教徒のそれだと明らかなれど、
だがだが、私はその人を良く知っている。
「 イエスっ!」
はっと目が覚めれば、
そこはやわらかな明るさを滲ませた部屋で。
もしや まだ妖異の術中に囚われたままかと警戒し、
焦りつつ身を起こしかかると、
「あ、いきなり起き上がってはなりません。」
覚えはあったが久しく聞いてなかった声がすぐ傍でした。
顔だけを向ければ、思いのほか間近にいたのは
薬師如来に長らく仕える書生の尊で、
懐かしいお顔の中、気遣うように細い眉を寄せていて。
若々しい肢体に似合いの、菩薩の衣紋をまとう彼の向こうの寝台には、
先程の夢幻の中で、ブッダを呼びに来たのはこのためか、
手を取り合ったままのイエスが横たわっており。
ぽかりと遅れて目を開けたのへ、
「あ、ああ、よかったぁ。」
どちらが案じられていた身であったのかが判らないような、
それはそれは安堵したという、
感に入った か細い声を上げた釈迦牟尼様だった。
◇◇
それは力のある聖人の意識下へ飛び込んだなんて無茶をしたせいだろう、
イエスはまだ本調子ではないようなのでと。
代理のようにして 薬師の書生様の言うことには、
ブッダ様が突然倒れてしまわれたのです。
あまりに唐突にその気配や生気が絶たれてしまわれたものだから、
下界全体までも一気に真っ暗に閉ざされてしまいかかったほどで。
間近におわしたイエス様が わあと大急ぎでご自身の光でブッダ様をくるみ込み、
瞬歩移動でこの逗留先までを運ばれてから、
天界浄土の梵天様にご連絡を取られて…。
周囲がいやに白っぽい印象なのは、
イエスが咄嗟に築いた結界を張ったままであったから。
そんな対処に、まずはと天乃国から四大天使が降臨したほどだったらしいが、
彼らの関係筋がコトを起こしたわけではないらしく。
ややあって駆けつけた梵天が
釈迦牟尼の意識をまずは封じた何物かがいること、
そのままどこかへ攫うか、それが敵わないならばここで抹消してしまいたいのか。
ぐいと釘付けにでもされたかのように動かない、
その気配のあまりの強さに“これは…”と
軽からぬ懸念を滲ませ、
苦衷を隠さぬまま苦々しげに唸った天部様だったものだから。
『私の力で連れ戻しましょう』
ブッダほどもの格を誇る聖人が相手では、
普通一般の人の子への影響とは桁の違う強さを及ぼす“光”が必要。
なので、それは自分にしかできないと言い出した彼ではあったが、
それへは、イエス自身が取り込まれてしまわぬようにという、
繊細微妙な加減も要ることでもあって。
『このまま目を覚まさないなんて哀しいことだし、
どこかの何物かに攫われてしまうなんて、
彼自身にも納得のいかぬ手痛い運びに他ならないだろうから。』
それが何者かの艱難を救うためなら判らぬが、
こんな勝手で恣意的なことには付き合いたくない彼だと思うからと。
ちょっぴり拙い言いようで紡いだイエスだったのへ、
『例のないことです、危険ですよ?』
大天使たちのみならず、梵天もまた
出来れば考え直してほしいと何度も言を重ねたのだけれど。
他でもない親友の一大事なのだと、頑として譲らぬ彼だったため、
『では、我らも周縁にて結界を守って力をお送りいたします。』
一部始終を監視して、いざ危ないとなったらば、
嫌も応もなくイエスの意識を引き戻すと。
つまりは、彼が見聞きしたことをそのまま自分たちも享受しながら、
危険か否かを断じるとと、そんな支えようを申し出てくれて。
それでの一大施術を決行したそうで。
「そうだったんだ。」
ブッダとしては、
お買い物の途中から、いきなり天界の瑠璃宮へ記憶がつぎはぎにされたようなもの。
しかも、直前までいた世界の記憶はざっくりと遮断され、
どこに居たのかは思い出せぬままでもあって。
“…まだまだ修養が足りないのかなぁ。”
余程に力を使ってくれたのか、
広げないソファーベッドほどの幅の狭い寝台の上、
気怠そうに横になったまま、
窪んだ眼窩に影を落とし、瞼を下ろしているイエスを見やり。
助けてくれたのはありがたいが、
“それでキミがこんなに憔悴していては、何にもならないじゃないか。”
何でそうも優しいのかと、
そんな彼だと判っていながら、歯がゆくなってしまったらしいブッダ様。
自分だって同じことをしただろうと判っているからこその、
相思相愛ならではのジレンマに、
胸の奥がきゅうきゅうと絞られるような想いがしたようで。
そして
恐らく、梵天が手掛けたならば、
ブッダにも多少は影響が出たような荒療治になったかもしれぬ。
途轍もない荒行をしまくった前世のみならず、
天界にあっても、下界とは何かと規模の異なる修行を積み重ねてきた彼であり。
大岩を浮かべた真下に坐してみたり、
途轍もない水圧に囲まれた湖の深みで瞑想したりという無茶や無謀を繰り返し、
それはそれは強靭な心身をしている彼だと
ようよう知っておればこその、遠慮のない早急な対処を取ったに違いなく。
「それもあって、というか、
それを恐れたから、あのひょろこい神の子がしゃしゃり出たんだろ?」
万が一にも人の子に気付かれぬよう、
アパートの内部、201号室ごとを平行世界の亜空に取り込んで、
事の次第を見守っていた一同だったが、
無事に戻った如来だとあって、今度はその錯綜結界を解かねばならぬ。
松田ハイツの周縁をその足でゆっくりと巡りつつ、
大地に打ち込んだくさびをほどいていた梵天へ、
真っ直ぐ向かってではなかったが、明らかに聞かせるつもりの声がして。
「おや。」
意外な人がと言いたげな、虚を突かれたようなトーンの声を返したものの、
強いままの目ぢからとそれから、
意志の強さを滲ませた口許の壮健さが揺るがぬあたり、
予想はあった相手だったことを忍ばせて。
「君の仕業、ではなかったようだな。」
「たりめぇだ。こんなセコイ咒術に全霊賭すほど非力じゃねぇよ。」
随分とあれこれ端折っているが、
自分の能力をもってすれば…もっと容易に取り掛かれると、
威張っちゃいけない相手へ妙なところを胸張って見せた、仏界のとある魔王様。
陰と負とは別物で、
陰はそもそも陽と一体だったもの
よって、時に寄り添うても構わぬが、
負は聖なる存在を食おうとつけ狙っている 忌まわしいもの
聖や正を取り込んでも均されたりはしない、一体化もしない。
ただただ飲み込み、凌駕せんとするだけの
貪欲放埓な存在にすぎず、
魔物の中でも特に用心を敷かねばならぬ。
「例えばこんな奴のようにな。」
腰から下の蛇身を器用に立たせて、
マーラが視線だけで忌々しそうに見やったものへ、
今度こそ…梵天がくっきりした眉をしかめて不快さをあらわにして見せる。
それも結界として呼び出していた沙羅の木の根方に
細身の剣で縫い止められているのは、
短い蛇か堅いナメクジのような蟲であり。
そんな制裁を加えられても、
尾をひくひくと跳ねよじり、もがいている生命力のおぞましさ。
「生き物の姿をやっと取れている下等の陰魔だ。」
仕留めたのは彼なのだろう。
ふんと鼻息をつくと刃物ごとその蟲もさらさらと消えてゆく。
「イエスが常に傍に居るから、隙がますますなくなって、
破れかぶれで呪いをかけた馬鹿がいたんだろうさ。」
向こうも神聖な存在で、
ああもう忌々しいぞというしかめっ面になって吐き捨てる彼だったれど。
「で、キミが助けてくれたと?」
そうと天部が指摘すれば、途端に真っ赤になるところが判りやすい。
ババババババばかいうなっ何で俺があんな奴をと
牙を剥きつつも しどろもどろになりながら、
姿を消してしまった可愛い魔王様で。
そんな彼の退場と共に、
うっすら霧がかかっていた世界だった周辺が、
するすると輪郭を取り戻し。
ちょっぴり雑多な、だが生き生きした生気に満ちた、
人々の住まう世界とのゆかりが、それはあっけなく取り結ばれる。
“イエス様が傍に居るから、か。”
純粋な光の眷属である神の子は、その目映さから負の存在を寄せ付けないが、
今回はそれが故の恨みを強く買ったという理屈ならしく。
“だがまあ…。”
だからといちいち萎縮し怯むのは本末転倒。
何よりそんな前倒しの杞憂なぞ、とうにイエスが打ち砕いているはずで。
困ったら素直に頼ってくれるところが何とも可愛らしい、
果敢なのだか無垢で儚いのだか、
まだまだどちらのものともならぬ和子様なのへ、
苦笑が絶えぬ最強天部様だったそうな。
〜Fine〜 15.10.24.
*ハロウィン向けに何か書こうかなと思ってたんですが、
気がついたら、こんなの出来てました。
いつぞや、イエス様が昏睡してしまった件の逆 Ver.というところでしょうか。
めーるふぉーむvv 
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